2016年05月19日

『 経ケ島 』 (^J^)

こんにちは。

初夏の香りが気持ちいいですね。
ブログの更新がなかなかできずにいたら、院長が今回 うんちくを調べてくれました。るんるん


800年ほど前、源平の戦乱では倉敷でも2度の合戦がありました。
寿永2年(1183年)10月水島合戦と翌年(1183年)12月藤戸合戦です。
藤戸「源平合戦」における佐々木盛綱の「藤戸の先陣」エピソード
は有名で、後の室町時代に謡曲「藤戸」が作られ語り継がれました。

昔この辺りは小さな島が点在する海であり、源氏軍は海を隔てた
対岸の種松山に陣取る平家軍を攻めあぐんでいました。源氏方の
佐々木三郎盛綱は、地元の若い男(浦の男)から馬で渡れる浅瀬を
聞き出しますが、秘密が漏れるのを恐れて男を殺します。翌朝、
『乗出岩』から海に入っていき、小高い所で馬を休め鞭を地に刺し
(『鞭木跡』)、ついに対岸に上陸しました(合戦後ここに『先陣庵』
を建立)。先陣を切って海を渡る盛綱の姿に、味方も驚きますが後
に続いて進撃し、激戦が始まります。虚を突かれた平家軍は制圧され、
残兵は船で屋島に逃げ帰りました。

「海を馬で渡って一番槍した希代の例」と軍功を讃えられた盛綱は
児島を所領として賜わります。しかし、浦の男の母親の、佐々木と
聞けば笹まで憎く抜いてしまう無念に触れ(『笹無山』)また怨霊も
現れるようになります。悔悟した盛綱は、浦の男と戦没者を供養
する大法要を行ない霊を弔ったところ、亡霊は心がはれたと成仏
したそうです。

この大法要が行われた寺が『藤戸寺』であり、その時書写した経を
埋めた小島が『経ヶ島』です。

hujito-kyogasima-01.jpg


頂上にある古びた宝篋印塔 (経塚)と
六角形の石塔婆(漁塚)は「浦の男」の供養に建てられたといいます。

藤戸合戦のゆかりは数々・・・改めて史跡めぐりをするのも楽しそうです。


posted by スタッフ at 09:51| Comment(0) | 日記
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